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1日本:東日本大震災から4年、福島の家族が過ごした日々東日本大地震四年後 福島家庭的生活樣貌 日本大海嘯過後的原町、南相馬市、福島。
2東日本大震災から4年の歳月が流れた。照片: Flickr user Jun Teramoto.
3震災で事故を起こした福島県第一原子力発電所の近くに当時住んでいた妹一家が過ごした日々を、ブロガーの齊藤貴義が細やかに描写している(著者の許可のもとで転載)。3月11日這一天,標示著2011年日本東北大地震與海嘯的四週年紀念日,近兩萬人死於當時的災難,更有23萬人被迫撤離。
4私の実家は相馬市だけど、下の妹夫婦は義弟が第一原発に勤めていた。齊藤貴義(Takayoshi Saito)是一位日本部落客,他詳細地形容這場地震如何影響他小妹一家人的生活。
5東電の子会社で第一原発の施設管理を行う警備会社の仕事だ。他妹妹一家原先住在福島第一核電廠附近,但這座核電廠卻成為繼地震和海嘯後,另一波大規模災害的開端。
6その関係で大熊町の第一原発のすぐそばに住んでいた。以下文章經作者同意後在全球之聲刊出
74年前の3月11日、第一原発が施設警備どころの話ではなくなったので、妹夫婦と1歳の姪の3人は大熊町から避難することになった。妹妹在東京電力公司的安置計畫下蓋了新房子 相馬市則著手興建新市役所
8相馬の実家や妹への電話は全く繋がらず、東京の私は不安だったけれど、ネットしかやることがなかったので、Twitterで「原子力空母ロナルド・レーガンがキタ━(・∀・)━!!!!」位於福島縣的相馬市是我的故鄉,我最小的妹妹一家住在離福島第一核電廠非常近的大熊町,她的丈夫當時在東電所屬的福島第一核電廠警備公司任職,這個部門主要負責設備的管理。 四年前,2011年3月11號,福島第一核電廠的狀況失控,沒有人有餘力再去留心廠區內的設備安全,我的小妹及她丈夫決定帶著一歲的女兒徹離大熊町。
9とかつぶやいていた。我當時人在東京,很不幸地,無法連絡上在相馬市的雙親和妹妹,無事可做之下只好在推特上打上:「核子動能的隆那雷根號航空母艦來了!」
10相馬の実家と1回だけ電話がつながって「実家は無事。那段時間,我只有一次和住在相馬市的雙親通電話,他們更新訊息說道:「 我們家的房子沒事,小妹一家已到了福島縣的田村市避難,小妹的岳父則因為義消的緣故,留在大熊町。」
11妹一家は福島県田村市に避難している。在這次通話後,我僅能透過電視得知,撤離範圍已擴大到田村市。
12義父は消防団なのでまだ大熊町に残っている」という情報を聞いた。而後,我就無從得知妹妹一家的下落,我擔心他們是否能從田村市撤離,我唯一能做的事只有上網,在網路上閱讀正反兩派的言論,一派過度強調福島第一核電廠的安全性,另一派則警告這樣的情況有多危險。
13その後、テレビをみていたら避難区域が拡大されて田村市も避難区域になった。我還發現第一波抵達相馬的紓困物資是棺材,相馬女子高級中學,那所我高中時代極欲就讀高中,竟變成暫時存放屍體的場所。
14そのあとの妹一家の行方が分からなかった。一具具被海嘯大浪沖上岸的無名屍從海岸被帶到這裡來,日本自衛隊也來到相馬執搜救任務。
15私は田村市から避難できたのか心配だったけど、連絡がつながらないし、ネットしかやることがなかったので、安全厨と危険厨の論争を読んだりしていた。在此同時,住在埼玉縣浦和市(東京北部)的二妹要她的警察男友載她驅車北上,找尋我們最小的妹妹,他們在北茨市的避難所找到小妹一家,隨後他們載著小妹一家返回浦和市,而在那同時,我竟只能上網,在危急的時候,我真是個無用的哥哥。
16ネットを見ていたら、相馬市に支援物資が届いたけど、相馬市に届いた最初の支援物資は棺桶だった。二妹聯絡上我並表示,她要將在浦和的工作室分給小妹一家住一段時間,目前四個人只能委身在狹小的公寓中。
17高校時代に行きたくてたまらなかった旧相馬女子高の校舎が臨時の死体安置所になって、海岸部から続々と運ばれてくる身元不明の死体を置く場所になった。我雖幫不上甚麼忙,但我想他們可能需要現金,於是我從瑞穗銀行領了錢。
18自衛隊が相馬に救援に来て救助活動を開始した。這家銀行在當時還短暫離線了一陣子,因為有太多人要捐錢給受災戶。
19その頃、浦和に住んでいた上の妹が、警察官の彼氏に車を出してもらって、妹を探しに出発した。我帶著錢到浦和,把它交給我的妹妹們,浦和那時正執行分區停電,因為要節約來自受損電路網的電能。
20そして北茨城市で避難民の中から下の妹一家を発見して、車に乗せて浦和まで連れて帰った。當我給她們錢的時候,她說:「我好高興,大家都沒事。」
21私はただネットをしていただけだった。然後就哭了出來。
22非常時に何の役にも立たないお兄ちゃんでした。小妹一家在浦和待了一個月後回到相馬,搬進臨時屋。
23上の妹から連絡があって、下の妹一家3人を連れて帰って浦和のワンルームマンションでしばらく4人で生活するという話だった。一年後我造訪相馬,親眼見到妹妹的臨時屋,明顯是速成結果的木造房子底部,木頭已經開始腐朽。
24私は何も出来なかったけど、これから妹が何をするにも現金が必要だろうと思って、障害からようやく回復したばかりの、みずほ銀行から預金をおろして、浦和まで行って妹達に渡した。我買了麵包超人玩具給姪女,但忍不住開始同情她們。
25浦和は計画停電の対象だったので、何度か電気が止まったらしい。四年了,小妹一家因東電的賠償金而有了不少的積蓄,她們因而在相馬建一棟新房子。
26お金を渡したら、下の妹が「みんな無事で本当に良かった」と泣いていた。在這期間,他們又有一個孩子,現在他們有了兩個女兒,小妹的家人告訴我,東電給她們為數不少的賠償金,而這些賠償金連小孩都有份,一家四口因而得到足夠的賠償金。
27その後、1ヶ月ほど下の妹一家は浦和に住んでいたけれど、相馬の仮設住宅に暮らせる目処が立って、相馬に帰った。在相馬市,新市役所的興建工程已經開始,新市役所的設計靈感來自日式傳統的倉庫,叫做藏造(Kura-zukuri)。
28その1年後くらいに私が相馬に帰ったとき、妹の仮設住宅を見に行ったけれど、本当に木造で急場でつくった感じの住宅で、下の方から木の腐食が始まっていた。舊市役所雖未受海嘯破壞,但我好奇他們是否還願意花額外的預算來修復?
29姪のためにアンパンマンのおもちゃを持っていったけれど、何だか不憫だった。我也想看看海濱地區,那個原本有很多民宿的小鎮現在已人去樓空,只留下受損的建物。
30あれから4年…。相馬曾以養殖海菜聞名,不過現在想重啟這項產業,似乎還言之過早。
31妹一家は東電からの賠償金が沢山貯まって、相馬に新築の家を建てた。我媽媽現在住在相馬。
32もう1人の姪が産まれて、東電の賠償金は子供であれ4人分もらえるので、けっこうなお金が入っていると言っていた。有一次她在開車的時候聽到「川松浦大橋音頭」這首歌,她說這首歌讓她想起地震前的日子,但這首個的演唱者卻已在海嘯中罹難了。
33義弟はレーシック手術や歯のホワイトニングに興味があるらしい。已經過了四年了呢。
34それくらいお金に余裕が出てきていた。相馬野馬追祭典照片,拍攝於地震後。
35地元の親族では、テレビが報じているほどには東電を憎んではいない。後記
36相馬市も、市役所を新しく建て替えて、全面蔵造りの新庁舎にする工事が始まっていた。 相馬市の庁舎津波の影響を受けていないけど、復興予算が余っているのかな。上個月,我到相馬去告訴父母親自己即將搬進新大樓,我希望未來能衣錦還鄉,我告訴爸媽: 「我沒有辦法沒帶任何好消息就回到這裡」,他們卻說:「這是你的家你隨時都可以回來」。
37海岸部も見に行ったけれど、かつて町だった民宿街が更地になっていた。 まだ一部の建物は壊れたままだった。我會再試一次,更努力的嘗試,我保證。
38相馬で有名な海苔の養殖はまだとても開始できる状態ではなかった。關於作者
39相馬の母は車を運転中、「松川浦大橋音頭」という演歌を流していた。齊藤貴義是 Sanbo Honbu的負責人,這是日本知名的網站開發公司。
40これを聴くと「元気だった頃の相馬を思い出す」という。他和幾家日本傑出的網路公司合作,包含Livedoor。
41この演歌を歌っている歌手は津波で死亡している。工作室推特搜尋@miraihack。
42そんな4年間だった。 震災後に私が撮影した相馬野馬追い宇多郷の行列譯者:Sophia Chen 校對:Fen